2009年6月13日土曜日

倉木の英語

倉木麻衣の曲をききながら、更新中。音楽は良いのだが、何かがひっかかる。

高校時代から思っていたのですが、彼女の歌詞は、英語が多い。彼女自身が作詞しているらしい。
当時、宇多田ヒカルと競合していたということが、
彼女の楽曲に英語挿入が多くなっているひとつの理由になるかもしれない。

しかし、残念なのは、聴いてみると、その英語部分が、なめらかな埋め込みになっておらず、
バイリンガルソングにはなっていない。

ここから、彼女がネイティブではないということが推測できるだけではなく、
倉木の場合、[[日本語] + [英語からの借用語]] となって、歌が作られたのではと推測できる。

音声的な特徴だけでなく、英語の部分の歌詞が、英語っぽくない。
学校文法をぬきだしたようなフレーズ、語用論的にも、不可解が残る。
どうして、日本語オンリーで、歌わなかったのだろうと思う。
また、バックコーラスの人を、黒人コーラス女性達でそろえる必要があったのだろうか?

「英語っぽくみせる」ことの、不可解さ。
少なくとも、バイリンガルの私には、理解しにくい歌詞内容となって映る。

それは、英語話者にとっての、英語ではなく、
「英語っぽい何か」として、非英語話者の、value(価値)として使われているようだ。

でも、それで、何がしたいんだろう、とは思う。同じく若者として。
バイリンガルの、「伝えたい感情を、伝えたい言語で伝える」のような機能ではない。

私は親米家だし、フラット化する社会の動向を興味深くみているし、私自身は日本語と英語のバイリンガルだ。
で、だからこそ、あえて、英語使用に関して、ブログでは、厳しくなってみる。

「英語っぽい何か」を、使うことが、商品(ここでは、歌手)のラベル付けになっている。
しかし、その結果、市場の受け手の誰が得をするのだろうか?
松田聖子の、「赤いスイトピー」で、"I will follow you"と歌ってた時代と、何か変わったんだろうか?

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