2009年7月17日金曜日

異文化のせいで、ネイティブっぽくない-TOEFLのはなし-

自国の文化が、英作文の書き方に影響することがあります。

ただ、ネイティブ話者の採点者は、異文化に気づかずに、減点したり、訂正したりします。
勿論、採点者が、多文化に精通しているというのは、
大規模なテスト採点では難しいでしょう。

標準化されたテスト(standardized test)であるTOEFLの英作文セクションで、どういう内容がでてくるか、ご存知の方も多いかと思います。

家族のことと、学校のこと、教育のこと、、、英作文のお題に出てくるもの。

それらは、下記にETS (TOEFLをはじめ、標準テストを作っている非営利団体)によると、世界中の第二言語でも、容易にアクセスできるトピックだからだそうです。

"Topics dealing with education and family are quite common on standarized tests because they topics are easily accessible to L2 writers around the world." (参考:ETS (1996))

でも、これが、落とし穴。

家族や教育に関する、「あなたの意見を述べなさい」って、
文化によって、書く内容が変わってくることでしょうから。

「子供は親のいうことに従うべきかどうか?」
「制服着用についてどう思うか?賛成か反対か?」
「自分がやりたい学問を専攻すべきか、就職に役立つ学問を専攻すべきか?」

これらの質問は、「あなたの純粋な個人的意見」というよりも、「あなたのいる社会に即した、あなたの意見」を、結果として答えにもってしまいがちです。学校の存在意義が、組織・集団・上下関係重視なアジアと、個人重視な北米では、解答が大きく違ってくるでしょう。


たとえば、「マイケル・ジャクソンの年俸は高すぎると思うか?」「健康維持のためにあなたがすることは何か?」という質問に比べて、
各国文化によって、内容が変わりやすい。

TOEFLは、
「内容について、採点してるわけじゃない」はずですが、
内容を構成する、助動詞の使い方とか、言語的に影響を受けるでしょう。
そうすると、ネイティブ採点者は、「キモい書き方してるな。減点!」となる。

TOEFLの採点者は、学生でも社会人でも学校の先生でも誰でもなれます。私の友達も、採点しています。
ただし、ESL教育のプロが採点するわけではありません。

問題なのは、採点者が多文化に精通していないということではありません。常識的にみて、いくら広いアメリカとはいえ、海外事情や異文化に精通している人はそう多くありません。

問題は、ノン・ネイティブが書いた英作文が、「キモい」時に、
その「キモさ」が、文化に要因していることに気づかずに、ネイティブ英語採点者が減点していることを、
ETS社は、認めずに、同じような問題を出し続けていること。

「家族」「教育」関係の英作文で、儒教エリアの国々だと、
彼らの模範解答は、「目上の人や組織に従う内容」になりやすい。

親のいうことに従う「べき」である。
教師のいうことに従う「べき」である。
校則に従う「べき」である。
だからmust, should, have to, need to, などを使ってしまう。

これが、TOEFL英作文減点への入り口です(>_<) きをつけてね!


ここらへんの「べき」意識が、アメリカ社会は、うすいのです。もっと個人にとっての「家族」「教育」だと捉えられます。
せいぜい、「べき」ではなくて、「そうしたほうがよい」程度。
must, have to, need toより、せいぜい、shouldで軽く流す。


このあたりの違いについて述べている、面白い論文を3つあげておきます。

  • Kaplan, R. B. (1966). Cultural thought patterns in intercultural education. MA: Blackwell.

  • Kubota, R. & Lehner, A. (2004). Toward critical contrastive rhetoric. Journal of Second Language Writing 13. 7-27

  • Hinkel, E. (2009). The effects of essay topics on modal verb uses in L1 and L2 academic writing. Journal of Pragmatics 41. 667-683.

2009年7月15日水曜日

東京国際ブックフェアで考える②:「潜在力」「右脳」って何よ?

回のエントリーは実は「東京国際ブックフェアで考える②:著作権2.0の世界」にしようと思ってました。
それは次回に。

前エントリー「東京国際ブックフェアで考える①:脳科学と英語」に重複するのですが、
いくつかの幼児用教材(英語に特化しているものも、そうでないものも含む)の宣伝文句の共通項にあった
のですが、
「右脳」 の発達に着目したものがありました。
ロジックはこのようなものです。

幼児期に右脳をもっと発達させるべき→右脳が発達すると、こんなに言語(あるいは特定の能力。算数とか絵画とか)の習得に役立つ!!→わが社の教材Xは右脳発達にこんなに効果的→これは買うしかない。

まぁ、それなりに説得力のあるものだとは思います。
刺激を与えることによって、幼児は何らかの反応を示すはずなので、脳に負担がかかります。
その負担があるのと無いのとでは、なんらかの違いがあるのは間違いないでしょう。

でも、そもそもの前提なのですが、教材を買う前に最低限これだけは疑ってください。
①その能力と「右脳の発達」は結びついているのか?
 →右脳の発達がその能力の習得に結びつく?or 右脳の発達がその能力を何らかの形で促進させる?
②その教材はほんとうに「右脳の発達」を招くものなのか?
 →①が真であるとして、その教材を使った幼児と使わなかった幼児での長期的な比較は行った?
 →計量的に十分な被験者を集めて適切な実験環境で教材の効果を検証した?

では、言語の場合なのですが、
①:どうやら母語話者並になる鍵なのは右脳ではないようです。上級ドイツ語学習者(ロシア人)とドイツ語母語話者の言語刺激に対する脳波の違いを調べたところ、両者の間で決定的に違ったのは
  1)400ms(つまり1000分の400秒:4/10秒)前後で前頭葉(脳の前の方)で脳波に
やや違いがあった。
  2)100ms~200msの間で
左前頭葉の陰極にやや違いがあった。
つまり、「左」じゃん!!ということです。
しかもその差は微々たるものでした。逆にいうと実験中のドイツ語学習者はドイツでドイツ語を長期間学習している大学生です。
実験対象としては「頭を使って生きてきた人たち」「ドイツ語を恵まれた環境で学習している」人たちです。
この結果をどのように考えるかというと、
  1)学習することによって脳波のタイプを母語話者から見て「やや違う」程度まではいける
  2)上級でも「やや違う」ところまでしかいけない
  3)差を生みだしていたのは「左脳」
ってところでしょうか。ちなみに本当に左脳の脳波が母語話者と学習者の違いを生み出すのかといえば、
そのように結論するのは誤謬です。あくまで仮説として考えておいて、比較検証をしなくてはなりません。

②:長期的な比較検証を行っている教材にお目にかかるのはレアなことです。
これは別にいいと思うんです。やればなにかしらは伸びますから。ただ、本当に「効果性」「有効性」を謳うのであれば、検証は義務です。やらないとしたら(やっていないとしたら)、それは疑似科学に基づくエセ教材です。
「効果性」「有効性」は何かしらの形で数量化できるものなので(というか数量化できる複数の群を比較して「効果性」「有効性」をもとめる)、検証をやらないのにそのような宣伝文句をするのであればそれは嘘です。

ちなみに上の実験を取り上げた論文です。
Hahne, A. (2001). What's different in second language processing? Evidence from even-related brain potentials. Journal of Psycholinguistic Research, 30(3), pp. 251-266.

2009年7月14日火曜日

誘惑な英語教育

Peterさんに続いて、私も、東京国際ブックフェアに行って参りました。

どうしても、自分の研究分野、関心領域に近いので、
「英語教育」「早期教育」「こども」バイリンガル」と銘打ってる商品や会社をみるときは、厳しくなります。
インチキ理論で、高い商品を売ろうとしていることへは、どうしても、研究者として、正義感が働いてしまうんですね。

言語教育の研究自体は、営利を目的にしていないはずだけど、
巷広がる”教育”ビジネスは、営利目的でしょう。
だったら、実証効果がよくわからない部分を、もはや前提にして商品をアピールするのは、過大広告な気もします。

私や、私と同じように英語教育関係で研究してきた人なら、
すぐに見破れるような変な商品が、圧倒的に多いです。
往々にして、たいした知識のない内容に、論理のすり替えで、要は「英語できないとダメですよー」「今しかチャンスはないですよー」と煽って宣伝しているようにきこえます。

以下の商品は、要注意です。


「脳」の力、とか、最近ブームな脳をあげるところ、
・5歳まで、とか○○歳、と年齢制限にこだわるところ、
・教材単価が、やたらに高いところ(かつ、セットで買わせようとする←なぜセットにする必要があるの?単品では効果ないの?)


日本の早期英語教育は、英会話・コミュニケーション力(?)業界も、ワンダーランドです。
言語力検定を始めた財団法人もありますね。言語力、スピーチ力、コミュニケーション力、って何なのでしょうねぇ。
あと、脳と筋肉を、混同してませんか?脳を鍛える、とか。脳と言語能力の相関性、まだまだわからないところが多いのになぁ。筋トレみたく、脳トレしたら、むきむきになれるのかな。

基本的に、英語教材を勧誘してくる人は、どんな切り替えしにも食いついてきます。「食いつき検定」1級です。

「あなたの分野の研究している(ふふ、プロだぜ)」へは、「じゃあ研究教材にどうぞ(買えよ)」と食いつく。
「留学経験は既にある。現地に住んだ経験もある(だから、不要)」へは、「じゃあもっと上達しましょう(買えよ)」と食いつく。

だから、最後のカードはこうしましょう。「私、バイリンガルですよ」と。
そして、"Well, I can talk in English."
Then if I keep talking like this in English only, how would they react?

どうですか?英語での切り返しに、彼らは食いつくでしょうか?
"誘惑"な英語教育は、日本語を使って語ってる間しか、生きていない気がします。日本の産業なので。

2009年7月13日月曜日

東京国際ブックフェアで考える①:脳科学と英語

東京国際ブックフェアに行ってきました。
サイトはこちら↓↓↓(ごめんなさい、もう終わってます。来年行ってね)
第16回 東京国際ブックフェア: http://www.bookfair.jp/

和書が定価の2割、洋書も半額程度となかなかにいい買い物させてもらいました。
初めていったのですが、本好きにはたまらない企画ですあぁ~。
で、家族連れが多数いらっしゃいました。
多くの本に触れ合うなんて、教育にもいいのかもしれませんね。

と、同時になんだかなぁー、と思うことも。

「英語」「脳」「幼児」「バイリンガル」をセットにした販売が多すぎる!

あくまで創作の宣伝文句(つまり、今作った)なのですが、

   「三歳まで、子どもたちの脳は臨界期といわれる状態にありまして、その間のインプットが
    英語バイリンガル育成のためには重要なんです。弊社の商品『英語耳・デキールZ』は
    ネイティブの良質な音声データを効率の良い順序で並べてありますので、子どもたちの
    英語脳発達に非常に効果的な商品なんです。脳科学者ジョン=スミス教授(仮名)が
    開発した
画期的新教材なんです」

こういうのどっかで聞いたことあるような・・・。

その分野の研究に身をおいているから分かるのですが(だって最新の研究状況手に入るから)、
とりあえずはまだ脳科学と英語学習を結びつけるのは時期尚早です。
脳に刺激を与えるわけだから、何かしらの効果があることは確かなのですが、それが英語学習の
役に立つのかはまだ分かりません。もしマイナスの効果だったどうしましょう(汗
ですので、宣伝文句はこう受け取ったほうがいいです↓↓↓

  「ひょっとするとなにか効果あるかも。効果無くてもごめんね(汗」

参考までに補足すると、「臨界期」らしきものがあるのは分かっています。
でも、「臨界期」事態にどんな働きがあるのか、「臨界期」の前と後ではなにが違うのか、
「臨界期」は何歳から何歳まで続くのか、、、(その他もろもろ)まだ定説がありません。
議論白熱中といった状態でかれこれ三十年くらい続いています。

・・・あと、売ってた商品高い!!高すぎる!!

2009年7月12日日曜日

要約:Cameron & et al. (1993). Ethics, Advocacy and Empowerment: Issues of Method in Researching Language  

非常に興味深い論文だったので要約します。
日進月歩の学術界にあって、15年以上前の論文でそろそろ古典とも言えるものではありますが、
よいものはいつ読んでも示唆に富むのですね。

<予習>
本稿でのエシックス、アドボカシー、エンパワーメントに基づく研究のスローガンとしてそれぞれ
"Research ON informants", "Research FOR informants", "Research WITH informants"が与えられています。エンパワーメント・モデルを推奨している論文です。エンパワーメントに関しては

パウロ・フレイレ著 小沢有作訳 『被抑圧者の教育学』 亜紀書房
イヴァン・イリイチ著 小澤周三訳 『脱学校の社会』 東京創元社

に詳しいので、合わせて読むと論文の内容がすんなりと頭に入ります。

1. Introduction
  ・言語使用とは、中立的なものではなくそれ自体が社会構成の一部となっている
  ・多かれ少なかれ全ての社会調査には言語調査を含まれていることを
   調査者は理解しなくてはならない
2. Positing researcher and researched: ethics, advocacy and empowerment
  ・調査者と被調査者を結びつける3つの要素:エシックス、アドボカシー、エンパワーメント
 →エシックスの関連要因:ガイドライン順守、情報提供者の不利益の回避、
                   倫理違反と無害なごまかし(an innocuous deception)のバランス
    →アドボカシーの関連要因:客観的事実の追求とアドボカシーの両立、”the interactive  
                   methods”による情報提供者が主体となる研究の構築
    →エンパワーメントの関連要因:フーコー流の権力理解による抑圧構造の理解、”feedback
                   technique”によって情報提供者に研究成果を伝える
3. Conclusion
  ・調査者は研究環境下での権力の複雑性を留意して情報提供者と絶えず交流
   ( a constant negotiation)を行い、権力の動的な面を理解しなくてはならない
  ・調査者・情報提供者の知識構築・相互理解のためにエンパワーメント・モデル
   によって研究を行うことは重要

趣旨の要約
今までは「被調査者」について研究を行ってきたわけだが、そこから卒業して「被調査者」とともに研究を行うべきだ。

2009年7月11日土曜日

文系とか理系とか

ほんとはこの二分法ってどうでもいいんですけどね。
でもまぁ、これから受験控えてる高校生や就職活動で動いている大学生には重要な区分ですね。
前者の方々は受験科目が決まるし、後者の方々には面接で「文系っぽいこと」、「理系っぽいこと」を話さないといけないし。
理系なら面接で「いやー、ブルバギ原論なんて所詮ユークリッド空間Rnの焼き直しっすよ」
とか言わないといけないし。
・・・・・・そんなわけないか。

教育者(のはしくれ)としては、高校生たちが早い時期から文系・理系に分かれてしまって、
一度決断しようものなら、二度と違う分野の勉強をしないのには危惧を感じます。
せめて、二年の秋までは文系・理系のどちらも勉強して欲しいなあと思うのですが。
理系的思考(って言葉も本来は無意味ですが)の出来ない文系、
文系的思考(同じくこの言葉も無意味です)の出来ない理系、
どちらも役立たずと切られてしまっても仕方ないし。

話はそれますが、巷でよく言われている理系的・文系的思考ってまとめると
理系的=客観的事実を基に議論を進める
文系的=主観的事実を基に議論を進める
ってところでしょうか。これは社会人であれば二つとも身につけてて当然の素質ですね。
もっと話はそれますが、高校生の時の勉強は、特に数学の場合「暗記した公式をあてはめるだけの単なる機械的作業だ!!」
なんて批判もありますが、日本の数学のカリキュラムってよくできてますよ!
大学で数学を勉強する上で、どうしても前提として必要なものを厳選して公式学習としてカリキュラム組んでます。3年間、暗記と当てはめに鍛えられた素養で、すぐに大学レベルの数学が出来るようになってます。

と、まぁ数学科のヨイショをしたところで、本題に(前置き長っ!!)。

先日、なにか文系が読める理系的思考のための本でおすすめはないか?
と尋ねられたので、紹介も兼ねて載せておきます。
1)容易に安価で手に入る本、2)簡単に読める本がいいと言われたのでそれに合いそうなものを。

1)デカルト著、谷川多佳子訳 『方法序説』 岩波文庫
これは名著の中の名著です。もはや詳しく言うまでもないでしょうね。
哲学書ってなんか難しそう・・・って思ったら大間違い。とても平易で読みやすいです。
内容は、省察(デカルトの場合、何かについて「客観的」に考えること)をどのように行うか?そのためにはどんな方法を使えばいいか?という問題提起とそれに対するデカルト流の回答です。
要約代わりにネタをばらすと、
「ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、わたしの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうかをみきわめねばならない」(p.45)
「わたしたちがきわめて明晰かつ判明に捉えることはすべて真である、これを一般的な規則としてよい、ただし、わたしたちが判明に捉えるものが何かを見きわめるのには、いくらかの困難がある」(p.48)
安いし、分量も厚くはないのでまだ未読の場合には第一にお勧めします。

2)中谷宇吉郎 『雪』 岩波文庫
雪のメカニズム解明に一生を費やした中谷先生のエッセイです。
科学研究で必要不可欠な試行錯誤の過程、仮説設計の手法、結論の導き方が人工雪生成実験の描写を通じて明らかにされています。

3)松井孝典、南伸坊著 『「科学的」って何だ!』 ちくまプリマー新書
松井先生に南さんが「科学的と非科学的の違いって何?」と質問して、それに答える構成のいわゆる対談本です。一般向けに書こうとしてちょっとチャカしすぎ(例えば無限の概念や反証主義とか)なのが玉にキズですが、とても面白いです。
サクッと「科学的に考えるってどういうこと?」を知りたい方はぜひ。

2009年7月10日金曜日

『はじめての言語学』 『はじめての人の言語学-ことばの世界へ』 

今回の書評:

『はじめての言語学』 黒田龍之介 講談社現代新書 2004年 
『はじめての人の言語学-ことばの世界へ』 上山あゆみ くろしお出版 1991年

まず一言。
よみやすい。アレルギーを作らない。

個人的には、新鮮な情報より、既知なことが多かったですが、楽しかったです。
こういう本は、学部生や社会人など、ことばの学問に興味をもってもらうきっかけになる本だと思います。

学問分野は、やさしく説明するほうが、むずかしいんですよ。
もともと、対立関係(学派など)、最新情報、理論の変化、など、
複雑にからみあっているものなので。
語弊や誤解をおそれず、あえて、わかりやすさを追求する教材は、なかなかだと思います。

黒田のほうは特にロシア語を、上村のほうは日本語が専門ということもありますが、例として多くの言語にふれています。
上山のほうは、日本語に関する疑問を、言語学的な観点から説明しているだけでなく、
又、主要外国語を、見開き2ページでそれぞれ解説するということもしていて、
ことばについて興味がある人の、入門書の1つとなりえるでしょう。

2009年7月6日月曜日

『私を抱いてそしてキスして』

タイトルだけみると、なんかセクシーですね。
表紙に、黒人母親、黒人赤ちゃん、作者、の写真が映っていたのと、ハワイの内容だったので買ったけど、
写真がなかったら、恋愛小説だと思って、買わなかったでしょうね。
ブックオフで100円で売っていて、アマゾンでは、1円からあるそうです。

家田荘子『私を抱いてそしてキスして』 1990年 文藝春秋

約20年前に、アメリカでHIVが黒人、ゲイ、貧困地域で蔓延していく中、
ボランティアとして、心のケアを行う、体当たりなルポタージュ。

まず、結論から言います。面白いです。

家田荘子といえば、「極道の妻たち」の本が有名なので、
ブラック業界もしくは性的な何かをルポするイメージがあります。
関西の人は、家田荘子が、「2時ドキッ!」のワイドショーで、毎週火曜日、遙洋子(『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』の人)らフェミニストたちと、ザ・女なトークをしてたイメージがあると思います。

そのため、私はこの本、当初は、期待値が低かったのです。安いというだけ。
HIVで死ぬ悲哀は、携帯小説でいまやオンパレードですしね。

ところが、この本は、非常に現実的な部分に即していて、興味深かったです。
きちんと、現場に自らが行き、1年かけて得たストーリーだということが、端々から読み取れます。
同じくアメリカでフィールドワークをしてた私には、
外国の地に飛び込んで、知らない世界に身一つで入り、社会奉仕することの大変さがよくわかります。

しかも、20年前、HIVに関する情報は錯綜していて、ネットも普及していない時代だったことを考えると、
HIVの人たちのコミュニティで、一緒に生活するのは、並大抵の努力ではないでしょう。

『私を抱いてそしてキスして』は、話の大半が、HIV患者と家田荘子との、葛藤、混乱、不安、などの感情と、それを乗り越えようとする行動です。汚いし、残念なところも多い。でもそれが、体当たりでフィールドに行った現実なのでしょう。

最後に、ハワイ州の感染率が上がっていることを指摘していました。
全米の中でも、楽園天国なことをやらかしてる州ですからねぇ。。。
根幹の産業がなく、観光地として生計を立てる州のため、歓楽街を中心に、
売春、違法ドラッグ、精力増強剤(バイアグラ)も堂々と売ってるし、日本語で書かれたパンフレットまで
街中にあります。ブラックガラスでプライバシーを保全して、リムジンサービスもあります。
宗教的観念も薄いです。ゲイのカップルに人気の州です。
日本人女子は、お金持ってる+可愛いということで、モテます。常にナンパされることでしょう。

私は、リサーチャーとしてハワイにいたので、こういう状況に、最初の半年、ショックを受けました。正直、ハワイに来たことを後悔しました。 下品な人、多すぎやん、と。
正直、日本人女子と思われたくなかった。

アメリカでHIVが爆発的に増えた80年終わり~90年代はじめ、日本人女子留学生も発症したそうです。残念ながら、今も、あるのでしょうね。
ハワイをどう変えるか、はこの本の目的ではないですが、 色々考える機会になりました。

この本のタイトル『私を抱いてそしてキスして』が言いたい事は、
HIVにもハグして、キスできるか、という家田荘子からの挑戦状と諭し。
接触だけじゃ移らないといえ、本当にそこまでできるひとが、どれくらいいるんだ、やってみろ、ということを1990年に問いただした本です。フィールド(現場)からのルポが好きな人におすすめです。

英語が苦手だ、というフレーズが何度もこの本に出てきますが、患者ケアサービスの研修を受け、黒人英語や、スラングまでも、きちんとコミュニケーションしている姿には、これこそが、言語習得の体当たりな気がします。

2009年7月5日日曜日

○○力、○○検定万歳!

タイトルは○○カ(まるまるか)ではなく○○力(まるまるりょく)です。紛らわしいですね。
○○にはお好きな言葉をいれてください。
ギターを愛する方はギター力、村上春樹を愛読されている方は村上力、
ウェイトレスのあけみちゃんが好きな方はあけみ力です。
今回は「流行語」と「ことばの乱れ」に関するお話です。

いきなり結論なのですが、言語学に「ことばの乱れ」なるものはありません。
より正確に言えば考察対象としていない、というべきでしょうか。
「ことばの乱れ」とはいかなる言説か、
「ことばの乱れ」が差す内容はなんなのか、
といった高次的なことを上から目線で語ったりはしますが。
今、ふと我が振りを見直してみたんですが、
「―――とはいかなる言説か考える」なんて、何か陰険でヤなやつっぽい響きですね。
ふむ、気をつけなくては。友達無くしたくないし。

新書のタイトルに登場するくらいの破竹の勢いで流行ってます。
「○○力」と「○○検定」。
誰が言い出したのかは分りませんが、考えた人商標登録しておけばよかったのに。
でもどうやら登録されていないので、ありがたくパブリック・ユーズさせていただきます。
ぜひとも、いつか「英語力力」「英語力検定」と題した本でも書こうと思います。
ちなみに内容と目的は「英語力とは何なのか考える力」と「英語力とは何なのか考える力を検定すること」です。
あー、ややこしい。

で、ですね、人間の性なのか、歴史は繰り返すのか、
新聞で読みました。(あとテレビでも見ました)
○○力だと!ケシカラン!!日本語が乱れに乱れとる!!!国語力の低下だ!!!
あっ、間違えて国語力だなんて言っちゃった。ちゃっかり、使ってるじゃん。

まぁ、それはともかくとして、別に乱れてなんかないんですよねぇ。
第一、ことばの乱れって何かわからないし。新しいことばってのは、常に狩りや非難の対象です。
○○に名詞(または名詞句、名詞節etc)を入れて、
「○○とその関連概念の1)包括的な知識量、2)実行時の質の高さ、3)その他定性面・定量面での秀逸さの度合い」を一発で言えるグレイトな語なんですよ!
意味がぼやけるという犠牲(例:あけみ力って何だ!?)もありますが、便利さとは常に何かと引き換えに得るものなので、ここは無問題です。

「ことばの乱れ」を語るのって主に誰なんだろうとふと思ったので、
新聞の内容検索なぞやってみました。今回の検索対象は読者投稿です。
朝日だったら「声」、読売だったら「気流」です。
めんどいので戦後からやってみたのですが、でるわでるわ「乱れ論」。
投稿には実名も含んでいるので、詳しい内容は伏せますが、
60年前から日本語は乱れ始まったようです。
無駄に省略するな!!!カタカナ語けしからん!!言語の乱れは文化の乱れだ!!とかとか。

もし、日本語が当時から乱れているとしたら、
その時に乱れを生んでいるとされていた人たち=主に若い人たち、
がそんな若い時の事を忘れて今の日本語の乱れを指摘しているわけです。
今ではご意見番的な立場の方々も若い時は乱れていたようで。
・・・あれ、でも乱れを指摘するってことは、
ご意見番のみなさまは今は乱れてないわけですよね。みごと更生したわけです!!
どうやって更生したんですか!?とても知りたいです。
ちなみに昔の「乱れ論」にも「意味のわからない新語をつくるな!!」というのがありました。
なんてデジャ・ブ。
そんな「乱れている」と指摘されている方々はご安心を。
いずれみなさまも指摘するようになります。「最近の日本語は乱れとる!!」と。
歴史は回る。

2009年7月3日金曜日

母が子に英語で話しかける

病院にて、母親が、子供に英語で話しかけていました。

母親は日本人で、子供も、見た目には日本人なので、
周囲には不思議に移るのかもしれませんが、
多言語社会になると、こういう光景がもっと広がるのでしょう。

母親は、院内で受付などスタッフと話すときは日本語で、
子供と話すときは、大半が英語でした。
どちらも流暢でした。

子供も、院内でスタッフに話しかけるときは日本語で、
母親とは、英語が中心でした。

このように、言語の使い分けを、5歳の子供がきれいにしているということは、感心させられます。
コミュニケーションの中で、幼い頃から言語選択ができるということは。

子供は、見た目が日本人とはいえ、
両親ともにバイリンガルなのかもしれないし、
もしかしたら、父親が日系やアジア系アメリカンで、家庭内では英語なのかもしれません。
ただ、特殊な家庭事情が、5歳児で既にバイリンガルになった、というよりかは、
母親が、子供に、いろんな人に、特定の言語で、話しかけるように促していることも重要な要素だと思いました。

院内のスタッフを前に、「ほら、挨拶しなさい」と、子供が日本語で話すことを促す。
そして、周りのスタッフが、子供に日本語で話しかけ、子供はその質問に日本語で答える。

でも、合間の待ち時間は、母親は子供に、"Take off your shoes."とか、"Which book do you want to start?"とか、英語で話しかけ、
子供は、英語で答えている。

この、話す人や空間によって、言語選択をするというルールを、
幼いころから身につけるには、親と子のTPOに応じたバイリンガルコミュニケーションの結果なのでしょう。

「わが子に英語もはなしてほしい!!」と思うなら、
結局は、親と子のコミュニケーション量、インプットの量が大きく起因してくるのだと思います。
外で週1時間、ネイティブと英会話をすることよりも、
家で、親子で英語で会話するほうが、子供も英語を話すようになる、という当たり前のルールですね。

2009年7月2日木曜日

上手にLとR発音できるかも 「心育てることが大切」指摘も

6月29日付朝日新聞、生活1に同タイトルの記事があったので以下に紹介と解説をしてみます。
朝日を購読の方はぜひ読んでみてください。データベースにアクセスできる方は「英語」で入力して日付順にするとすぐに発見できます。
まず、統計なのですが
「習い事や通信教育をしていますか?」(首都圏の母親3069名による複数回答式)

1.定期的に教材が届く通信教育:25.2%
2.スイミングスクール:21.0%
3.スポーツクラブ・体操教室:17.9%
4.英会話などの語学教室や個人レッスン:9.5%
5.ピアノやバイオリンなどの楽器:5.8%
6.幼児向けの歌や踊りなどの音楽教室:5.2%

このうち、1の一部と3が英語教育にラベリングされるとすると、少なく見積もって1割、最大で3割程度の首都圏の子どもが学校外で英語に触れているようです。1の通信教育のうち、何割が英語関連の教材なのか分からないため、大雑把ではありますが、仮に全通信教育中半分が英語関連とすると、2割くらいの子どもが学校外で英語学習をしているのでしょうか。
ここは「英語を学校外の教育機関や通信教育で勉強しているか?」という質問をすれば明らかになりますね。

この結果を踏まえて、記事では英語教育の人気は依然として高いとしています。
たしかに、英語教育は楽器や運動に比べてなんら遜色の無い人気の高さを保持しているようですね。
ふーん、そうなんだ。英語は人気なのか。幼児英語教育塾でも開こうかしら。

さて、話は変わって記事では幼児英語教育の賛否について報告しています。
要するにまとめると
<賛成派>
・LとRの聞き取りと発音ができるようになる可能性が高い
・中学校での負担が少なくなる
<反対派>
・早期教育→大人の英語力には直結しない
・美しい発音のみに執着する視線への危惧(うまい発音より、よい内容を伝えることの方が重要)
<折衷派>;反対も賛成も表明せず
・持続が大事
・楽しみながら親が一緒にかかわる姿勢が大事

内容そのものからは外れますが、限られた紙幅ながらバランス感覚に優れた記事だと思います。
スポンサーの意向をもろに反映して、教育に関する記事は「悲観論」やら「危惧論」などで新しい教育(および教育法・教材など)の必要性を煽って、教育界にお金が落とし込まれる図式になりがちですから。そのような意味で、特に煽りも無関心も装ってないので、バランスは良いかと。
とはいうものの、「結局何がいいたいの?」「それって無駄に中立を意識した無関心じゃん」といった反論もあるわけですが。」

で、解説ですね。
反対派と折衷派は文字通りそのままなので、解説の必要もないですね。
英語教育をわが子に!と思っている方は前提も前提として考えるべきことです。これらを意識しないで無頓着に英語をやらせればOKなどと考えているうちは教育界の思う壺です。
どっかファンの教育機関があって、そこのキャッシュフロー向上のために私の財産を寄付します!くらいの気持ちをお持ちの方には何も言いませんが。
賛成派なのですが、なぜこういう言説ってLとRの発音ばっかり指摘するのでしょうか?
考えてみてください、LとRを混同してなにか意味の損傷を起こしますか?
では、意味の損傷の心配があるとして、それで何か問題になったことはありますか?
その損傷、体験したことはありますか?LとRの聞き取りに失敗したことはありますか?その失敗以前に、その時に聞き取ろうとしたものがどんな内容だったかわかっていましたか?
端的にいうと、言葉を使うときには、言語背景(コンテキストといったりします)があって、それとの兼ね合いで意味を判断したりします。例えば、
妻:「あなた、電話よ!」
夫:「今、風呂だって!!」
文字通りに読むだけでは何のこっちゃ!?です。だけど、どんな場面か容易に想像できます。
電話=電話がかかっているからでなさいという命令
風呂=今、私は風呂に入っているので電話にでるのか不可能という意思表示
これらが言語背景です。背景は意味の理解を助けてくれます。
簡単にいうとですね、LとRの聞き取りはあくまで、一つの音素(まぁ、つまり「音」)の問題であって、それが違った(間違えただけ)で意味の損傷が起こるということは他の箇所がイカれている可能性大です。
例えば" wow, it's a blinding light"というべき箇所を" wow, it's a brinding right"と言っても聞き手がよほどのアホで無い限り言いたいことの意味は正しく通じます。
もし、通じないかった場合は「聞き手はアホだった」と思っておけばOKです。どうせアホには何を言っても通じません。
この例はたまたま英語に"brinding"という語が無いから通じるだけだろ!"election"と"erection"はどうなんだ?という反論もアリです。ちなみにele-とereは有名なジョークです。
この反論だって、「君はまさか、私が高尚に次期大統領選の解説をしているときに"erection"という語が発されると思っているのかい?」とすればOKです。選挙の時に"erection"と理解する方はよほどの天邪鬼かアホです。相手にしないにこしたことはありません。
なので、LとRに固執される方にはぜひともこう言ってみてください。
「うん、LとRの区別は重要っていわれてるよね。でも、それって実はあんま重要じゃないんだよ」と。
中学校の負担の話はまた今度。